2年前に考えたこと。
2019年 01月 20日
今を整理するために、2年前に音の講座や自分の演奏について考えていたことをUpします。
当時、茶会記から、茶会記に出演している人たちのステイトメントを頼まれたときに考えた文章の草案です。
今はもう少しジャズの言語としての音符へ意識が向いていて、実際の言葉を使うことと、音の言語的なところとの関係に興味があります。
以下2017年に書いたものです。
本来私たちが持っている音を”聞きとる能力”が、現代の管理され整備された社会の中で生活をする中で、音に対してそんなに気を使わなくても快適な生活を送れるようになったために、注意深く音を聞く必要が無くなり、音に対して注意をむけなくなってしまった。私たちの聴くという聴覚の能力は、自分の意識を目覚めさせるのにもとても有効な器官で、今自分がココにいることを音で理解し、自分を取り囲む周囲の音を聞き把握することは、心のバランスを取り直すことにも繋がります。
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ステートメント1(茶会記への草案)
ショーロは”思い出すための音楽”ジャズは”忘れるための音楽”by齋藤徹。ジャズの演奏では、テーマの後にソロをとり、そこではその先を新しく作りだすイメージや、そのような先入観にとらわれて演奏していたりすることがありますが、私はそこで何か新しいことを演奏するよりも、曲の中にすでにある響きを演奏したい。新しい何かを作りだすのではなく、すでにそこにあるであろう響きに耳を澄ませ、身体の中に記憶しているその響きを探すそんな行為も演奏となりえるのではないか?そのとき自分がよりナチュラルであればその音は自分の身体を通じて自然に出てくるのかもしれません。
"音楽は音、サウンドがすべて"by Dewey Redman。私はかれこれサックスのサウンドに取り組むようになって30年近く経ちます。息でリードが振動するサックスは、その音の発信部であるリードが固定されているマウスピースをどのように支えるかにかかってきます。アンブッシャのコントロールという部分です。音は空間に響きますがその音質はアンブッシャ次第です。ある時、自分の身体のハンディーに気づき、それでもサックスを吹くからには、そのハンディーを受け止めて演奏活動をしていかなければならないと思い至ります。顎の噛み合わせが悪いのです。演奏をはじめたときに自分と場の空間との間に、たえず不安定な要素をもつアンブッシャが横たわっている状態で、演奏が始まってから終わりまで、責任をもって演奏する。そのときに響いている自分の音を聞きとる感性を信じて、ときにはその感性も疑い検証をしながら、自分の耳を信じて演奏する。その時に自分の音も含めた空間に響く音の総体、それが音楽だと思っています。規定された音楽の譜面、その種類やその構造の縛りや範囲を含めても、私の音楽表現は、その音全体の響きを捉えるところから始まります。
私は1964年、新人類世代と呼ばれる時代にうまれました。社会に対して何の疑問も持たずに東京で過ごし、20歳でジャズサックスプレーヤーとして演奏活動をはじめます。昭和のよき時代に生まれましたが、もっと社会問題にも関心を持つような環境があればよかったと思います。学校でも家庭でもそういう環境はなかった。20代中頃にスピリチュアリズムの本を読み、現代美術に興味を持ち、画家が描く画面との接点で立ち現れる線や質感にワクワクし、物と空間の様々な関係性の中から立ち現れる表現に触れ、表現について改めて考えさせられました。 音楽と美術を重ねて思考するようになったのもそのころからです。音は空間に響きます。響きは自分にもどってきて語りかけてきます。耳を澄ませ音の進む方向に身を委ねると、薄明かりの中からやっと聞こえる歌の断片が見え隠れします。日常の雑踏の中にもそのような断片がみえかくれしています。2011年3月11日、大きな強震とともに、それまで自分が信じていたものが崩れさり、続く揺れの中で感じた無数の断片は今でも忘れられません。断片としての記憶。様々なサウンドスケープが奏でる日常の音たち。
前世期初めに民族音楽として生まれたジャズは、とても分かり易い形式をもとに、日常会話のようにミュージシャン同士が音で会話を楽しみ、様々な人が関わることができる、幅をもった音楽で、いまでは世界中の都市で演奏されていますが、もっと今の時代にあったやり方があるのではないかと思っています。何か新しい形式、方法はないか。それはいままでジャズが発展するなかで必要だった自己表現という音楽からもう一歩進んだところでの音楽の表現、それはどんな方法なのか?そしてそこには”言葉”がなにかしら関係することで、より具体的になるように思っています。
分裂した自己と他者としての社会との関係性の中で、自己をみつけるしかない時代に、わざわざつまらない自己主張をしなくてもいい。分裂した自分の一部が主張しているだけなのだから。いい音楽が生まれる場に立ちあえれば、それだけで私はいい。