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ベーシスト 是安則克さんの回想

 是安則克さんを偲ぶ。

 初めて是安則克さんと出会ったのは、今から30年前、数字を書くと随分と月日が過ぎたなあと
感じますが、感覚的にはついこの間のような気もします。

 私がジャズドラマーのジョージ大塚さんのバンドをやめた頃に、前後してジョージさんと共演をしていたジャズピアニストの大給桜子さんに声をかけていただき、吉祥寺のサムタイムに出演したのが是安さんと知り合った始まりでした。大給さんと是安さんと私の3人で、スタンダードや当時、ミッシェル・ペドルチアニが注目されていた頃で、その辺りの曲を演奏してました。残念ながら4ヶ月ほどでクビとなり、その後に是安さんと再会したのは、私がアメリカ留学から帰国して5、6年経ってからでした。
 当時の私は、デューイ・レッドマンにハマっていて、デューイの音楽を通じてオーネット・コールマンのフリーなジャズも知っていましたが、音楽的にはまだまだジョージさんの所で学んだスイングして歌うスタイルで演奏していたので、是安さんのベースの本当のよさは当時の私にはよく解らないで演奏していたと思います。当時の私は生意気で「変わったフィーリングのベーシストだなあ」と思いながら共演していて、その時の是安さんのベースから感じたチャーリー・ヘイデンの印象が残っていて、後に共演をお願いすることになります。

 毎回、ライブで会うと「おう!」と凄みのある声で声をかけてくれて、後はほとんど話をした記憶がありません。
それでも是安さんの言葉で記憶に残っているのは「お前は、思ったように演奏すりゃいいんだよ」のような、、ちょっとニュアンスが違うなあ、
何かそのような内容のことを言ってくれたように記憶しています。
 後でこの時期の是安さんはお酒で大変だったと人から聞き、そうだったかと当時の是安さんを思いうかべます。吉祥寺のサムタイムは地下にあり、階段を降り薄暗い店内に入ると、すぐ左にテーブルがあり、そこに物静かに、でも凄みのある是安さんが座っていたのを思い浮かべます。やはり今思い返してもかっこ良かったな。

 私がアメリカ生活を終え帰国し、自分のバンドを組んでオリジナルを演奏していた頃、いつもイメージにあったのがチャーリー・ヘイデンのベースでした。それは当時、影響を受けていた2000年前後のNYのダウンタウンシーンの彼らの音楽のベースに、オーネットから通じるジャズのエッセンスを感じていて、チャーリー・ヘイデン、ポール・モチアン、デューイ・レッドマン、ビリー・ヒギンズ、、かれらが、様々な形で当時のジャズシーンに影響を及ぼしていたものが、NYのダウンタウンの若い世代のジャズシーンにも影響をあたえていて、それがバックグラウンドになっているように感じていました。
 私がいままで東京で演奏活動してきて、ヘイデン好きなベーシストはいても、そのような音楽性を持ったベースを弾ける人は、当時の自分の周りにはいなくて、唯一そのようなベーシストを弾いていたのが、是安さんでした。
 そんな是安さんとの共演の記憶をたどり、知人のミュージシャンを頼り、是安さんの連絡先を知っている人を探しました。
その過程で、当時お酒で大変だったこと、その後の病気から克服されたことを聞き、もしかしたら当時の記憶は残っていないかもしれないという話も聞き、そんな中で是安さんに電話をかけてみました。
 電話に出た是安さんは、当時のことを覚えていてくれて、あの気さくな是安さんの話し方で、話をしてくれたように、記憶しています。
 共演をお願いするにあたり、自分が活動している小さなお店で演奏してくれるだろうかと不安でしたが、快く共演を承諾してくれて、本当に嬉しかったです。
 是安さんとの再共演が、ここからスタートします。
 当時、自分の音楽は自分のサウンドで表現しなければと考えていて、自分のイメージした響きで、ひたすら演奏していました。最初のうち是安さんは、様子を伺っていましたが、そのうちに是安さんの中で「解った」と思ったのか、それからは演奏中、ベースで「これはどうよ!、それってどうなの」というような問いかけが、音の中に聞こえてきて、それからは、問いかける是安さんと向き合う演奏になっていきました。この体験は、自分の音楽活動の中でとても大きな体験となり、それまでそんな問いかけを音楽の中でしてくる共演者は、いなかったのです。
 是安さんが音楽を演奏するということは、音での会話で、理想の音の響きを追い求めることも大切だが、ジャズ(ジャズという枠のみにはめることはないですが)は、音での会話ということを音で示してくれました。

 是安さんはいつもベースの響きのことを考えていて、それは単に自分の出したいベースの響きというだけではなく、共演者との間、場所の響きを含め音楽全体として是安さんがほしいベースの音を探していて、演奏前、ステージの間の休憩中など、アンプの上に乗せたイコライザーをずっと調整していました。
 大抵、演奏が進むに連れて,音の環境が良くなっていき、それぞれの音がよく聞こえ,なおかつアグレッシブな部分も生きる場になっていました。
 時々、ベースアンプやイコライザーも変えていて、ベースの音にまつわる道具を日々、研究していたことを思いかえします。

 是安さんと再演することで、自分が求めていた音楽を演奏できるようになったことのみならず、演奏で向き合うことを教えていただき、そのことがアメリカに向いていた音楽の意識から、日本ならではの、今ここで生まれる音楽を演奏する、そういう方向性に転換する大きなきっかけになりました。
 その後自分のバンドは、コードレス編成になり、ドラムの橋本学くんと3人で新宿ピットインや横浜エアジン、稲毛Candyなどで活動していきます。この3人に唯一加わって演奏したのはピアニストの浜村昌子さんとスイス人ピアニストのクリス・ウィーゼンダンガーさんでした。
 
 2011年に、是安さんが他界し、そのロスは大きかったです。是安さんの代わりになるベーシストはいなくて、是安ロスに陥ったミュージシャンは沢山いました。
 最後の頃には、音楽的な相談も聞いてくれたり、加藤さんやシューミーさんとの出会いも、是安さんが「シューミーの歌を聴いてみ!凄いから」と勧めてくれて、聞きにいったことがきっかけでした。
 
 巡る月日の中で、変わらぬ印象とそれが深まっていくこともあるとこの文章をかきながら感じています。

合掌!!

2018年9月23日是安則克氏、命日。
ベーシスト 是安則克さんの回想_b0174238_05404885.jpg

かみむら泰一


by taimusic | 2018-09-24 05:34 | 音楽